パトリシア・ハイスミス

ハイスミスを描いた映画が公開されていますが、それとは関わりなく『変身の恐怖(The Tremor of Forgery)』を読んでみました。巷の話に拠れば、彼女の作品は曲者で、そのまま鵜呑みにはできないと言うらしいけれど、北アフリカのチュニジアに、たまたま仕事で訪れたアメリカ人の作家の、非日常的な生活を、ほぼ独白的に綴られている小説です。英文タイトルを翻訳すると『贋作の震え』とはなりますが、日本語タイトルと同じくピンときませんね。読んでみても、何が「偽物」なるものを指しているかはよく分かりません。本国での友人の死、あるいは異国の地における生と死、道徳と罪の意味。他人の意見や主張は必ずしも的を得たものではないし、ましてや自分の意識や見解すら公理的な善悪で評価しえるものではない、とか云うのが、私の感じた、この本でハイスミスが伝えたいものではないかと思いました。キリスト教的な価値観をもった人々が、アラブ世界で過ごすうちに感じた物事の機微を通して、自らの潜在意識について再考していくとかいうプロットなのではないでしょうか? 直接の言及はわずかですが、物語のバックグラウンドで動いている、ベトナム戦争に対してのアンチテーゼも含まれているように思えました。私の読後感では、人は誰でも他人自身が下した自己評価を(自らの価値観で)覆すことはできないし、それを示そうと抗うと、却ってそのことは互いに不幸になる事実が待っているだけだ、という点を再認識した次第です。偽物か真理か、善か悪かとかいう観点でしか物事を捉えられないと、結局のところ、人間は誰しも幸せにはなれないように思えます。嘘が真実かも知れないし、真実がそうではないことも暗示しているのだと感じました。どんなことにも白黒(決着を)つけたがる世の中になっていますが、生きていくということは、必ずしもそうではないと感じたので、主人公は最後に穏やかな気持ちになって帰米していくのでしょう。わたし自身はそう捉えました。最後に、吉田茂の息子である吉田健一氏の邦語訳のようですが、割と読みやすい文章だったように思います。