ヘレン・マクロイ3

『殺す者と殺される者(The Slayer and The Slain)』1957年に出版されたこの本もマクロイ女史の代表的作品に挙げられているようですが、特異なプロットは抜きにしても、たしかにいろいろ考えさせられる内容でした。”Slayer”という単語は知りませんでしたが、スラングで「殺人者」という意味のようです。マクロイ女史は「記憶」というものに拘っているようで、今回もそれがキーワードでした。たとえば自身の判断材料となる「認識」というものも、所詮はそれまでに獲得した「記憶」の集合体を通して決定するものであると言います。そんなわけで、結局のところ、人の自叙伝などと言うものは、フィクションと大同小異であり、その真贋は甚だ怪しいものだと判断せざるを得ません。それでも、たまたま紙面に記録されているから、ああだこうだと批評の眼に曝されるわけですが、そうでない当人の記憶の集合知=過ごしてきた人生と認識しているものになると、監査や評価の範疇外になるわけで、云わば砂上の楼閣のような存在でもあります。何らかの原因で記憶が消失すれば、築いてきた人間関係は壊れるし、恋人などはどこかに吹き飛んでしまいます。そして何よりも自身の人生が失われます。人生=自我という世界は、記憶という壊れやすいサムシングに立脚しています。歯抜けばかりの記憶や、正しくない記憶に立脚した定義(=自分自身)ならば、それは本来の姿ではないという話になってきます。たった今、自覚している自分自身(自我)というものが、正確な事実に基づくものであり、適正な定義であるのかどうか、誰しも自問自答する必要があるのではないでしょうか?「自分はこうだ」と認識している自身像が、じつはとんでもない間違いで、周囲は全く別の評価をしている、そんな事がもしかすると有るのかも知れません。