ヘレン・マクロイ2

女史は『幽霊の2/3(a Ghost)』では、出版業界の闇を描いています。67年前になる1956年の作品にも拘らず、この業界では、いまでも充分に通用しそうな内容なので、結構愉しく読むことが出来ました。米国のミステリ本は残虐な描写が多いので、基本的に敬遠しているのですが、女史のものは割とスマートなのでお気に入りです。今回は記憶を失ったベストセラー作家と、その周囲に群がる、まるで禿鷹のような人々が織りなす愛憎や殺人劇を描いておりますが、読んでいるとき、ふと感じたのは「人は何故殺人を犯すのか?」という、謂わば「動機」の謎です。たしかに感情が高ぶり、衝動的に他人を殺めるという話も皆無ではありませんが、小説の題材としてはロジカルではない(=面白くない)ので、ケース的にはあまり無いと思います。あるのは、特定者が存在することで、自分自身の欲望(金銭欲・名誉欲・愛欲など)を満たすための障害となっているケースで、この障害を取り除くために殺人を起こすというプロットが、その殆どを占めているのではないでしょうか?たとえば「殺すほど憎い」などと言って、その相手に対して殺人を実行するケースよりも、自分自身が幸せになるための手段(あくまで身勝手な目線ではありますが)として、殺人(障害の除去)という選択を行う、とかいう話だと思います。そうした観点からすると、このミステリにおける障害の除去方法は間違っていたと結論づけられます。つまり、ここではヴィーラの排除に傾注すれば、エイモスもそのまま人生を全うできたはず。ベイジル・ウィリング博士の鋭い介入もなく、周囲の禿鷹の安寧も続いたのでしょう。良いことでも、悪いことでも、何ごとにも「ただしい順序」なるものがあって、それを間違えると双方とも足元をすくわれる、これがひとつの好例です。それにしても、ひとつのフレーズでも「Tell」「Give」「Say」の用法の地域性があるとは、だだっ広い米国ならではの文化です。