土地と稲荷信仰 お次は東京の空の玄関、羽田の話です。東京の羽田空港の駐車場のど真ん中に、鳥居を残して、なお鳥居の移築に抵抗している羽田穴守稲荷の展開は、人と稲荷と土地の結びつきを知る上で興味深い事例です。 今では羽田五丁目にある穴守稲荷は十九世紀の初めの文政年間に、この辺りの水辺の土地を埋め立てて新田開発を行いました。そしてそのときに堤防を築き、そこにお稲荷さんの小祠を祀ったそうです。やがて天保年間に入り、暴風雨があって大津波が押し寄せて堤防が決壊寸前のところになったそうですが、名主と農民が死力を尽くして、なんとか災難を免れました。 これもお稲荷さんの守護のおかげと思い、それからは一層お稲荷さんを手厚く信じるようになったといいます。ここも水田開発が行われる前は、小祠の付近は草木がおいしげった場所で、キツネの棲息地であったようです。それらを新田開発で追いやってしまったものだから、おそらく名主は祟りを畏れてお稲荷さんを祀ったのかも知れません。 明治二十年頃になりますと、羽田は東京近郊のレジャー地として知られるようになりました。春の潮干狩り、夏の海水浴などの場所として好適だったのにくわえて、明治二十七年には鉱泉が湧きだし、温泉旅館などもにぎわったということです。 これにともない穴守稲荷への参拝客も、地元中心から大勢の人々に変わっていきました。とくに花柳界の信者が多かったようです。どうやらこれは「穴守」の語呂からきているらしいのです。穴守は本来は穴森であって、狐の住む狐塚や狐穴からきた言葉でしたが、人の世ではその意味も大きく変わってしまいました。 お稲荷さんも、競馬競輪の賭博で大穴を狙う人たちが霊験を求めて参拝するようになったというから迷惑な話です。 やがて大正五年になり、日本最初の民間飛行学校と付属の飛行場が出来ました。昭和四年には、逓信省が穴守稲荷の北側にあった京浜急行の運動場を買収して、翌年には大飛行場を完成させました。それ以降、飛行場は拡大の一途をたどって、その結果穴守稲荷の社殿はさまたげとなっってしまいました。 そして戦後に、とうとうGHQの指令で穴守の住民は強制退去させられて、穴守稲荷も遷宮させられてしまったというわけです。でも羽田穴守稲荷の鳥居が、今でもなお残っております。おそらくは、これを動かすと祟りがあるというフォークロアが依然として残されていることなのでしょう。 世間にある多くのお稲荷さんと同様に、本来から棲みついているキツネの霊は、土地と結びついたまま離れようとはしていないということです。 |